とんこつラーメンの歴史は久留米から始まった。
2011年、久留米はとんこつラーメン発祥の地として改めて注目された年だった。
九州新幹線の開通に合わせてJR久留米駅前に発祥の地モニュメントを設置
そして中国最大級のテレビ局にその歴史を取材されるなど
気鋭店の進出によりトンコツにほれ込んだアジア諸国からも熱いまなざしを送られている。
久留米はとんこつ発祥の地であると同時に、鹿児島県を除く九州各県ご当地ラーメンのルーツでもある。
では、どのように誕生し広がっていったのか。
久留米ラーメンの真実をひも解く
久留米に発端をなす九州ラーメンヒストリーを改めてひも解いてみよう。
すべては一軒の屋台、1937(昭和12年)創業の「南京千両」から始まる。
うどん屋台「たぬき」を営んでいた創業者の宮元時男さんが、東京横浜で人気を集めていた支那そばと、出身地長崎のちゃんぽんを組み合わせてとんこつラーメンを創作。
1917(大正6)年より店を構える久留米の老舗中華店「光華楼」にも度々味の研究に訪れエッセンスを加えた。
南京千両は大人気を博し、久留米のスター的存在になっていく。
鶏がらの中華そばが主流だったこの時代、なぜトンコツに着目したのだろう。
久留米ラーメン会でTプロデュースの高松武司さんは「豚肉の管理が粗悪だった当時は鶏肉が主で、豚肉料理はあまり売れなかったようです。ほとんど捨てるだけ、安価で手に入る豚骨をなんとか使えないかと研究を重ねたのでしょう。」と語る。
ダシを豚骨のみにこだわるなど、宮元さん独自のアレンジで、九州ラーメンの原型が誕生したわけだが、当初のスープはグツグツ煮たぎらせない手法の清湯スープで白濁していなかった。
その後、九州とんこつラーメンの主流、白濁スープへの変化のきっかけとなる、ある事件がおこる。
白濁スープは偶然の産物だった。
南京千両に続いて1947(昭和22)年に開業した屋台「三九」
当時のとんこつスープは少し濁る程度で、透明感のあるものだった。初代店主の杉野勝見さんはある日の仕込み中、母親に火加減をまかせて肉の仕入れに出かける。
帰宅してみるとスープがグツグツと白濁。ためしに飲んでみるとそのコクの深さに驚いたという。
このように偶然煮込みすぎてできた失敗作のラーメンが現在の白濁系とんこつの元となった。
白濁系スープの生みの親・杉野さんはやがて北九州に移住し「来々軒」を開業。
現在は2代目の息子が腕を振るう。
そして杉野さんより久留米「三九」を受け継いだのが四ヶ所日出男さん。アク取りを徹底するなど白濁スープにさらに磨きをかけ、熊本・玉名に支店を開業する。
玉名の店に研究に訪れた「こむらさき」や「松葉軒」の初代が熊本市内にとんこつラーメンを広めた先駆者と言えるだろう。
また、四ヶ所さんは佐賀に移転オープン。
さらに「三九」出身者が大分・日田市に開業するなど、三九の白濁とんこつは九州各地に伝播してゆく。
一方、博多ラーメンの元祖は1940(昭和15)年創業の屋台「三馬路」といわれる。
清湯系のとんこつスープから南京千両の影響をうけたものと思われるが、久留米との明確なつながりは分かっていない。
「三馬路」 のラーメンは「五馬路」 を経て、現在の「うま馬」へ継承されている。
また、細麺、替玉の発祥は1955(昭和30)年。
魚市場と隣接する長浜の屋台街で、労働者に短時間で大量にラーメンをだすために生まれたものだ。
久留米のラーメンの歴史を語る上で欠かせないイニシエ店「南京千両」と「光華楼」は今なお営業している。
歴史に想いを馳せながら味わってみてはいかがだろう。
創成期を経て、屋台、国道系の時代へ
うまい!安い!早い!「国道系ラーメン」の底力
久留米ラーメンの人気が各地へ広がった背景には昭和33(1958)年創業「丸星ラーメン」や昭和40(1965)年創業「丸幸ラーメンセンター」の功績も大きい。
24時間営業のいわゆる「国道系ラーメン」である。
時代は日清ラーメンが発売され、それまでの「支那そば」「中華そば」から「ラーメン」というネーミングに変わりつつあるころ。
国道3号線沿いに店を構える同店は本格ドライブインとして一躍名を馳せる。
「丸幸ラーメンセンター」 は久留米の文化街にあった名店「幸陽軒」が全身。
佐賀県・基山に店を構える同店の人気ぶりだけでなく、共同出資者であった黒岩文雄さんが独立し昭和41(1966)年に創業した「大龍ラーメン」も久留米濃厚系の元祖としてブームの立役者となった。
久留米ラーメンヒストリーは「南京千両」に始まり「三九」が各地に伝えるまでを創成期、戦後復興とともに屋台が急増した第2期。
国道系ラーメンが第3期。
全国的なラーメンブームを受けマスコミにも取り上げられ人気を博した大龍時代が4期。
そして、ラーメンフェスティバル、Bー1グランプリにより人気が再燃した現在へと続く。
久留米と博多のラーメンは似て非なるもの
・麺
久留米は「やわ麺」
久留米は中太のやわ麺文化。
加水率が低くスープが麺に浸透しやすい。
替玉はほとんどなく大盛りで対応してくれる。
・スープ
久留米は「あっさり」
営業で減った分に新しいスープを継ぎ足す「うなぎのタレ」のような手法。
背脂は使用せず豚骨本来の濃度が際立つ。
・食べ方
久留米は「スープまで完食」
博多ラーメンの飲んだシメ、おやつに対し、久留米では完全に食事という感覚。
脂っこくないからスープまで完食が主流。
久留米と博多ラーメンの一番の違いはスープの濃度にある。
一般的に「久留米のほうがこってり味」というイメージがあるがそれは間違い。
久留米は骨を継ぎ足した煮込む方法が主流の為スープの「濃度」は明らかに高い。
しかし脂を使わないので、「こってり」ではなく比較的「あっさり」とした味わいの店が多いのだ。
久留米ラーメンは濃厚でありながらも脂っぽくさがなく、とんこつ本来の旨みを引き出したスープと言えるだろう。
そして麺は少し太めの中太、低下水でスープをすいやすく、やわ麺を好む人が多い。 替玉もなく大盛り対応が主流だ。
その他、サイドメニューに「焼きめし」を用意する。 やきめし率が高いのも特徴。
屋台が前身の老舗ラーメン店に注目
久留米では、戦後の復興期に屋台から創業した老舗が多いのも注目ポイント。
屋台発祥で現存している店は「南京千両」「清陽軒」「潘陽軒」「大砲ラーメン」「来福軒」「満州屋」(満州屋が一番)など。
南京千両に次ぎ2番目に古い潘陽軒は創業者が満州で習った麺料理がルーツとされ、大砲ラーメン監修の映画「ラーメン侍」のロケ地にも使われている。
また、09年に復活した清陽軒初代の香月浩さんは、昔ながらの久留米ラーメンに入る背油を揚げた「カリカリ」の考案者だ。
アジア諸国から”久留米ラーメン”に熱視線
現在の久留米はまさにラーメン戦国時代の様相。
博多一風堂で修行後、店主の出身地・久留米に開業した”博多生まれの久留米育ち”「龍の家」。
久留米・北野町にある一味ラーメン出身「モヒカンらーめん」。
かつて激戦区の久留米・花畑でライバルとしてしのぎを削った「大龍」「丸福」それぞれの弟子「梁山泊」「本田商店」など。
台頭する若手と昔ながらの老舗が火花を散らしている。
また、09年には来復権・南京千両・ひろせ食堂・清陽軒により久留米ラーメン会が発足。
「九州Bー1グランプリ」に共同で出場し第3位を獲得した。
現在は加盟11店舗に増えより結束を固めている。
さらに、中国をはじめとしたアジア各国に広がりをみせるとんこつラーメンブームにより、発祥の久留米が暑くわきかえる!
久留米ラーメン大解剖
久留米のラーメン店は、大きく「食堂系」と「ラーメン専門店系」に分かれる。
食堂系は「沖食堂」「ひろせ食堂」を筆頭に「竜鳳」「丸好」などで、焼そば・ちゃんぽん・丼など食堂メニューの多さが特徴。
いま流行りの久留米焼きめしは、この食堂系から派生した。
ラーメン専門店系も形を変え変化したが、「大栄ラーメン」「久留米屋」など昭和のスタイルを継承する店も多数。
ちなみに九州他県のラーメンの特徴は?
【佐賀】久留米に近い濃厚系
「三九」の支店も現存し久留米の要素を色濃く残す。
一番の古株、佐賀市「シャローム」(旧北京千両)や、久留米と博多の中間に位置し独自のラーメンが発展した鳥栖エリアにも注目。
【長崎】ちゃんぽんと合わせて発展
元祖店は明確ではないが、言わずと知れた名物ちゃんぽんとラーメンのスープを併用している店が多く、とんこつ×鶏がらのまろやかな味。最近、福岡や久留米ラーメンの出店も目立つ。
【熊本】火の国の顔は「ニンニクチッップ」
玉名に出した久留米「三九」を訪れた「こむらさき」や「松葉軒」の創始者が熊本にラーメンを広めた。熊本ラーメンの代名詞であるニンニクチッップは「味千ラーメン」の初代が考案し定着。
【大分】半世紀以上しのぎを削る2店
1954(昭和29)年創業で久留米「三九」の流れを汲む日田「来々軒」では、焼そばももうひとつの名物に。
【宮崎】ここもやはり久留米から
久留米「三九」の味を参考に1953(昭和28)年に創業した「きむら」が元祖的存在。とんこつを長時間炊いたスープは久留米ほどは白濁していない。具材にもやしをのせる店が多い。
【鹿児島】九州で唯一、土器時の道を辿る
久留米ラーメンの影響を受けていない唯一のエリア。スープはとんこつに鶏がらを加えたさっぱり味で麺は太め。ラーメンを食べながら大根の漬物をポリポリ食べるのが鹿児島流。
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